コロナ禍に読みたい

夢を叶えたその先に。

怒涛の勢いで駆け抜けた2022年が終わり年が明け今は2月。

いつもだったら年明けに今年の目標と抱負なんかをブログに書いたり、早いときなんかは年が明ける前に「ひと足先に来年に向けたスタートを切ります!」なんて言ってたっけ。

あれは2019年とかだったかな。

でも今は目標も抱負もよくわからない、年度末に大きな仕事を抱えてたり、なんとなく「◯◯したい」って気持ちはあるけどね。

目標や抱負がなくっても焦る気持ちがあるわけでもなく、なんだかどこか心地よい。

家に帰ってお風呂に入るのが楽しみだったりと、何気ない日常に幸せを感じるようになった。

今までの自分と何か違う、でも嫌じゃない。

この気持ちはなんだろう?

夢を叶えたその先に

いつかの仕事の移動時間、こんな話で盛り上がってた。

その中の一人が切り出した「みんなは今、やりたいことはできてる?」という話題。

演奏の場を増やしたい、生徒さんをたくさん集めたい、自分の教室を広げたい。

それぞれが達成したこと、この先に描いてるビジョンなんかを話す機会、僕はこうした時間が大好きだ。

自分がそのとき何を話したかはあんまり覚えてないけれど、ここ数年間は自分が描くビジョンを形にするために無我夢中で駆け抜けてきたことだけはよく覚えてる。

夢を叶えたその先には、どんな世界が待っているんだろう。

そんなことを考えながら、がむしゃらに、そして狂ったように走り続けてきた時間を少しだけ振り返ってみようと思う。

神奈川県進出計画

これは2018年くらいの話になるのかな、将来は神奈川県に活動の幅を広げたいというビジョンがあった。なぜ神奈川県なのかというと、今の妻である彼女と一緒に暮らすようになったら彼女の地元に近いところで暮らしたいと思っていたこと、そして吹奏楽指導者としてのキャリアをスタートさせた神奈川県で一花咲かせたいという思いがあったこと。

僕は千葉県に住みながら神奈川県でも仕事をしてたけど、2018年の3月で昭和音楽大学の合奏研究員としての任期を終えてからは固定の仕事で神奈川県に行くことはほとんどなかった。

あったとしても毎月2件ほど。

なので、このビジョンを形にするには神奈川県での活動軸を立てていく必要がある。

仕事は待ってても来ない、電話やメールを待っているだけだと時間だけが過ぎていく。

活動の幅を広げたかったら、自分で動いていくしかない。

神奈川県進出計画だ。

とにかく動け、量量量!

神奈川県に活動の幅を広げたいといっても正直どうすれば良いかわからない。

わからなければ片っ端から動けば良い。

当時はブログやTwitterで発信する人が今みたいに多くなかったし、若い音楽家がSNSで自分のことを発信することに批判的な意見も多かった。

でもそんなの気にしてたって仕方ない、僕が生きてるのは他人の人生ではなく自分の人生だ。

SNSやブログでは夢を語り、活動の幅を広げたいと声を上げ、名刺を持ち歩き、求人を出していなくても興味のある投稿や情報を見つけたらDMを送ってみたり、ブログやTwitterには神奈川県進出計画神奈川という言葉を多用してみたり、まだコロナ前だったから演奏会の打ち上げや飲み会、講習会の講師控室でも「神奈川県に活動の場を広げたい」と口にしたり、とにかく動く。

自分の道は自分で切り拓けばいい。

当時を振り返って

無我夢中、がむしゃらに駆け抜けた毎日だった。音楽の世界で師匠を持つように、この人のような生き方をしたいと思うモデルを探す。僕は本をメンターにするようなイメージで、この人の思考に触れたいと思う本を読み明かしてた。その一人は幻冬社の編集者、箕輪厚介さん。

脳内検索に引っ掛かるか?

音楽の世界で食べていけるのは一握りと言われるのは今にはじまったことではないけれど、チャンスや可能性を広げることは誰でもできるし今からでもできる。

SNSで自分のことを発信することで、少しずつ誰かの目に留めるようになってここで初めて認知される。名刺に自分のブログやホームページのQRコードを載せておくなど相手が自分にアクセスをしやすい導線を作ることも大切だ。

SNSで発信を続け「◯◯=××さん」というポジションを作り、名刺やTwitterのプロフィールには自分のブログへのリンクを貼り、すぐにアクセスできる導線を作る。

例えば打ち上げの帰りに名刺交換した人が自分の名刺を手にしたとき、そこにQRコードがあればその場でアクセスをしてもらえるかもしれない、ブログを読んでもらえるかもしれない。

また、当時は名刺に香りを付けていたりしたので、香りで自分を思い出してくれるかもしれない。

「コントラバス、誰かない?」そんな会話をしている中で、脳内検索に引っ掛かるかどうか。

活動の幅を広げるには、思い出してもらえるかというところも鍵となる。

こんなことを繰り返していく中、2019年には神奈川県での活動軸を3つ立てることができた。

当時を振り返って

少し残酷な話かもしれないけれど、いくら頑張っても知られなければ存在しないようなもの。毎年、多くの音大卒業生が社会に出ていく中、個人の名前で仕事をするとなるとまずは自分の存在を知ってもらわないとはじまらない。特に自分みたいな人間はすぐに埋もれてしまうので、こっちから声を上げていかないと気づかれることもないだろう。これだけ発信しても、「井口くん、今何やってるの?」と言われる。そんなもんだ。

千葉と神奈川の二拠点生活

神奈川県進出計画と旗を立て、神奈川県へ活動の幅を広げると同時に考えていたのが、完全に活動の場所を移してしまうのではなく、千葉の実家と神奈川の移住先と二つの拠点を持つこと。

僕の神奈川県での活動範囲は川崎市、横浜市、藤沢市とその辺り。

となると千葉県からも十分に通える距離で、神奈川県に移住したからってこれまでの仕事を辞める必要もないし、むしろ続けていきたい。

そしてラッキーなことに僕の実家は千葉県船橋市と千葉でも都心寄りのところにある。

となれば、千葉の実家と神奈川の移住先の行き来するような生活をすれば良い。

そもそも住む場所は一つである必要はないし、フリーランスなのだから拠点が複数あっても良い。

2020年4月、神奈川県伊勢原市へ

音楽家の家探しといえば、音出し可能物件だけれども、理想の高さから「そんな物件あるはずない」と言われる中で2年間で100件近く問い合わせ、ついに出会った物件があったのが神奈川県伊勢原市。

大山の麓の田舎町で、車で40分も高速を走れば温泉情緒溢れる箱根の街にたどり着く。

最初は距離的に厳しいと思ったけれど、内覧の翌週くらいに首都高横浜北西線という青葉台と新横浜を一本で結ぶ道路が開通し千葉県の都心部まで約90分で移動可能に。

そして時は新型コロナウイルス感染症がはじまったばかりの2020年4月。

車や電車で何度か伊勢原へ向かい、内覧ついでに移動距離と体感時間の確認をし、仮にこの先しばらく仕事が戻らなくても経済的に死なないボーダーラインを計算し、多少のリスクを背負いながらも「今しかない」と思い切って伊勢原に移住。

千葉と神奈川の二拠点生活のスタート。

そして場所は吹奏楽指導者としてのキャリアをスタートさせた西湘地区なのが嬉しかった。

といいつつも、時はコロナがはじまったばかり。

自粛自粛にステイホーム(移住したけど)この先どうする?

当時を振り返って

アルバイトを辞めたら仕事が増える説というものがあって、科学的に検証されているわけでもなくこれといった根拠もないけど確かにそうだと思うことがある。

これを自分なりに分析してみると、アルバイトを辞めるとその分の収入が入って来なくなるので仕事を探す必要が出てくる。となると日常の中で仕事に関する情報感度が一気に高まり後ろ盾がなくなったところで生き残るためのサバイバル能力が開花するといった感じ。

今回も同じでこの暮らしを守るためには何をする?という問いに関しての感度が爆上がりした。

そして、忘れちゃいけない自分が大きな決断をするときは常にパートナーの一言があった。

長い付き合いの末に結婚してくれて、一緒にてくれて心から感謝してる。

伝え方次第で受け取り方は変わる

過去に地方の音大から都内の大学院に進学して勉強している学生さんと話す機会があったとき「地方から出てきてしまったので、卒業して戻っても仕事がない」という悩みを聞く機会があった。

確かに地方を出て今は都内に住み勉強をしているかもしれないけど、例えば実家のあるA県B市と都内の今の家の二拠点生活をしていると伝えたら、受け取る側はどう思うだろう。

引っ越すという言葉は、完全に今の家を出てしまい新しい家に住むイメージが強いので引っ越すという言葉は使わない。それから上京って言葉も何かを切り離して出てくるような印象があるのでなし。

例えば、地元でも活動を続けていきたいので、実家を拠点に都内と地元と生活拠点を二つ持ち活動をしているだとか、今流行りのデュアルライフですって話をすれば面白がってもらえるかもしれない。

僕も神奈川県へ移住するとき「千葉での仕事はどうするの?」と聞かれたことがあったり、千葉での仕事はできなくなると思われたくないので引っ越すという言葉は一切使わないでいました。

当時を振り返って

僕の神奈川の家と千葉の実家を行き来していることだって、きっと似たようなことをやっている人は多くいる。だから、そんなの二拠点生活とは言わないって声が上がるかもしれないけれど、それは捉え方次第。伝え方が9割って本もあったよね。

コロナ禍の音楽家とオンラインレッスン

新型コロナウイルス感染症が日本にやってきて、各業界はこれまでにない大きなダメージを受け、僕らのいる音楽業界も地獄のような日々を過ごしたのは記憶に新しい。

突然、仕事が全てなくなりそれに対する補償があるかもわからない。

だけれども生きていく上で必要なお金はどんどん出ていく。

この状況をどう乗り越える?

きっと多くの人が同じように思い、考え、行動に移したと思うし、僕もとにかく考えに考え尽くして思いついたのがオンラインレッスンだった。

最初は乗る気じゃなかったオンラインレッスン

といいつつも、実は最初はオンラインレッスンに乗り気じゃなかった。

それはなぜか、実はその一年前にオンラインレッスンを試みてモニターを募集したり実際にレッスンの生徒さんを募集したことがあったけど、上手く行かなかった経験があった。

なので、コロナでオンラインレッスンが流行ることは予想できたけど、自分はいいかなと思っていた。だけれども、前回の失敗を生かして少しだけ視点を変えてみるとオンラインレッスンはいろんな可能性があることに気づいた。

そして再びオンラインレッスンをやってみようというところに辿り着いた。

当時を振り返って

オンラインレッスンが上手くいかなかったのは、オフラインでやっていたレッスンをそのままオンラインでやろうとしていたから。レッスンの価値は生きた言葉と音を交わす体験だと仮説を立てると、画面越しでそれを体験するのは難しい。となると、オフラインで喜んでもらえて、オンラインでも喜んでもらえるものは何だろう?ここにヒントがあるに違いない。

月額制×回数自由のオンラインレッスン

オフラインで感じてもらえた喜びや需要をどうやってオンラインで満たせるかと考えて、辿り着いたのが音楽×コミュニケーションだった。

コロナによって世の中が分断され、外に出ることも難しかった日々。人との交流が途絶え、先の見えない世の中にストレスを抱える中、きっと音楽を通したコミュニケーションは喜んでもらえる。

僕とオンラインレッスンをする方との共通点を書き出すと

  • 音楽をやっている、音楽が好き
  • コントラバスを弾いている
  • 教えるスキルを持つ人と教わりたいという意欲がある

そして、生徒さんの隣に来たり、正面にいたり、後ろから弾いている姿を見ていくレッスンとは違い画面越しのオンラインレッスンはテーブルを挟んで向かい合うような形になる。

となると、目のやり場も狭くなりサシ飲み感が出るので面と向かっての話が多分しやすい。

だとしたら音に対する追求よりもコミュニケーションに重きを置く。

同時にオンラインレッスンで検索をしてみると「オンラインレッスン 微妙」というワードを多く見た。それらの多くが音に対する問題、そしてインターネットの接続状況や時差についてだった。

確かにほとんどの人がやったことないことだから上手くいかないのも仕方ない。

なのであれば、繋がる権利を販売して接続テストも上手くいかなかった時のフォローも全部引っくるめてレッスンの回数を自由にしてしまってはどうか。

時はコロナ禍、いま自分が提供できるのはこの永遠に空いた時間だし、今しかできない。

そんな中で月額制×回数自由のオンラインレッスンをスタートさせてみた。

当時を振り返って

まずコントラバスのオンラインレッスンをするとなると

  1. レッスンを必要としている人がいて
  2. その人が個人で楽器を所有していて
  3. コントラバスを弾ける環境が家にある

これだけでもかなり狭まってくる。のにもかかわらず8人くらいの方が問い合わせをしてきてくれ、中には遠方から個人レッスンを受けにきてくださったり、生徒さんの出演する演奏会に僕がエキストラで出演したり、楽器ケースをプレゼントしてくれる方がいたりとたくさんの生徒さんとの交流が生まれた。

今も形を変えながら続けているオンラインレッスン、これからも遠方で演奏活動に励む生徒さんのサポートをしていきたい。

コロナで辛かったときの話でもしてみる

過去のブログを読んでみると、2020年も2021年もガンガン行こうぜ!的な感じで駆け抜けてきたし、振り返っても何かしら手足を動かしてきた。

でも、やっぱりコロナ禍辛いこともたくさんあった。

というかみんな辛かったよね。

僕よりも辛い体験をしている人はたくさんいるけれど、僕は僕で自分が辛かったと感じる体験談を綴ってみようと思う。

給付金がもらえない

コロナがはじまって4月には政府が緊急経済対策を打ち出し、僕らフリーランス、個人事業主にも持続化給付金という形で最大100万円の給付金を受け取れるようになった。

いろんな声があったけど、政府のスピードは早かったと思う。

ここでも確定申告のことなどいろんな問題が浮き彫りになったけど、これにはかなり救われた。

で、問題はその翌年だ。

その後も政府は一時支援金、月次支援金と制度を少しずつ変えながら給付金を出し続け僕らの仕事を支えてくれたのは良いけれど、この条件が厳しかった。

コロナ禍も一年たてばその中でどんな仕事ができるか模索するようになり、世の中も少しずつ動きはじめる。僕はありがたいことに仕事が戻るのが早い方だったと思う(ありがとうございます!)

だけど、完全に戻ったかというとそうではなく大体6割から7割ほど。

で、この時期に政府が出していた毎月10万円の給付金が受け取れるのは比較対象となる月の収入が50%以上減少した人だった。

となると、世の中も回り始めたいま僕はギリギリのところで給付対象外となる。

給付金を受け取って生活の足しにするのも大切だけど、いつかは給付金も終わるわけだから早いうちからまた仕事をこなし生活を立て直す必要もある。

だけど頑張るとか気持ち次第とか精神論で解決できる問題ではない。

金額を減らしてでも良いから、もう少し条件を緩和してくれたらとどれだけ願ったか。

当時を振り返って

働いても働いてもそれ以上に生きていくためのお金がかかり、貯めてたお金はどんどん減る一方。いつまでも給付金に頼れないからどんどん働きに行く方を選んだけれど、緊急事態宣言の発令によるダメージは大きかったし、2度と経験したくない。

コロナで一番辛かったのは2021年。

車が壊れた

これはもう笑い話なのかもしれないけれど、コロナ禍で経済的に大ダメージを受けている中で車が廃車になった話。大切に乗っていた車だけど走行距離が18万キロを超えていたので、数年後には寿命がくるとは思っていたけど、まさかこのタイミングだとはね。

その日は翌日の朝、千葉県の幼稚園でのコンサートのために夜中に伊勢原を出て車で千葉へと出発。途中、見たことのない警告灯が点灯し直感で嫌な予感を感じて路肩に停車。

エンジンを切り、再度走らせるもしばらくして警告灯が点灯しそのまま加速も鈍くなる流れ。

ここで頭によぎるのは明日のコンサートのことで、まず目標は千葉に戻ること。

その後、何度か停車してエンジンの再始動を試みる中、警告灯が全て消え加速も快調に!よし。

きっと最後の力を振り絞ってくれたのかと思います。

無事に千葉へ戻り、翌日の本番を終えディーラーへ入庫する際に再び警告灯が点灯し、点検の結果ミッションの故障と安全装置の作動、高額修理になるのでここまで走ったらもう良いでしょうとのこと。

これには納得して廃車という選択をしました。

当時を振り返って

なぜこのタイミングで車が壊れるかと思いましたが、起きてしまったことは仕方がないということで、楽器運搬でも車は必要なので次の車購入に向けて動きはじめました。1ヶ月は車なしの生活をしてみましたが、移動距離と荷物の量からとにかく大変。

まずは壊れた車を買い取ってくれる業者を探し、少しでも頭金を作り少しでも安い車をと思いましたが、やっぱり乗ってみたかった車を見るとそちらを選んでしまいますね。

来月でローン完済。

負けるものか

神奈川県進出計画を掲げ活動の幅を広げてみたり、コロナがはじまった頃は音楽一本でコロナ禍を乗り切るなんて目標を掲げたり、描いてた未来を潰されてたまるかという思いを持ちながら駆け抜けてきた。前代未聞の出来事だから、何が正解なのかなんてわからない。

コロナ禍の生き方なんて正解を導き出したらキリがないから選んだ道を正解にするのが一番いい。

久しぶりの営業活動

重なる緊急事態宣言で仕事がキャンセルになりその補償も出ず給付金にも引っ掛からずの中、精神的な追い討ちをかけたのは収入の軸としていた柱が崩れそうになったこと。

この状況で来年度からの先行きが不透明になると結構きつい。

お互い気持ちよく仕事していきましょうという形に落ち着いたので、これはオッケーとしてあとは自分の問題だ。いくら収入の分散化をしてリスクを回避してもどうにもならないときもある。

コロナ禍を生き抜く中で大切なのは自分の力でどうにもならないことは身を任せ、自分の力で何とかなることに全力を注ぐこと。

だとしたら、新しく仕事を見つければいい。

ちょうど部活動の地域移行のニュースが取り上げられていたり、近い将来、地域での指導者が必要になるだろうって仮説を立ててみたり部活動指導員の制度に興味を持っていたので、来年は絶対にこの仕事をやりたいと強い執念とともに四六時中スマホを片手にひたすら情報収集に走った。

当時を振り返って

部活動指導員をゼロから探すのは結構大変で、まず求人が見つからない。会計年度任用職員という立場になるので求人は音楽系のものではなく市役所や教育委員会となり、募集をしていても学校側が指導員を必要としてないと契約とはならない。

関東圏内の行ける範囲の市区町村に可能な限り電話をし、履歴書を送ったり直接アポを取り会いに行って話を聞きに行ったり、営業をかけに行ったりしていた。併せて部活動の地域移行がどうなっているのか各自治体ごとに聞くことができたり思わぬ収穫も多かった。

どこで採用されたらどんなスケジュールになるかも何パターンか用意し待つこと2022年の4月末。二つの地域からお声がけいただき部活動指導員としての任用が決まった。

アルバイト再び

コロナ禍を音楽一本で乗り切るなんて目標を掲げてきた中、2021年が幕をとじ2022年になってまた緊急事態宣言やら蔓延防止等重点処置なんかが発令されると仕事がキャンセルになる。

ここまで来れば、自分はどんなジャンルの仕事がキャンセルになり何がそのまま残るかも見えてくる(キャンセルになってしまうのは仕方がないし相手方は悪くない)

併せて新たに出た事業復活支援金も、計算してみたらあとわずかなところで対象外。

コロナ禍を音楽一本で乗り切るなんて目標を達成した先に得たものは、この状況を乗り越えられたのだから何があっても大丈夫という自信と達成感。

だとしたら、今年また同じことを繰り返し似たような達成感を感じても意味がないので方向転換。

給付金ももらえないし、空いた時間にどこかで働けば良いやと時給の良い肉体労働系に派遣のアルバイトにエントリー。

社員の方から寒いですが水分補給を忘れずにと水筒の持参を勧められたので、どうせ一日中荷物を運んで体を酷使するのだから減量用のプロテインを持っていけば良いやと思いプロテイン片手に出勤。

水やスポーツドリンクを持参する人たちの中、一人だけ茶色く濁った飲み物を時折シェイクしながら飲んでると「それ何が入ってるんですか?」と聞かれることもある。

「プロテインです」

ジムに行くとお金と時間がかかるから、お金を稼ぎながら体を鍛えればいい。

そして20代の頃はアルバイトに対して音楽一本でやっていくというプライドが邪魔をしていたようなところがあったけど、今はもうない。それよりも大切なのは暮らしを守ること。

プライドを守るな、暮らしを守れ。

当時を振り返って

コロナ禍においてお休みをしなくてはいけない仕事、続けられる仕事、続けないといけない仕事をしっかり分析できていると、他人の活躍を羨むようなこともなくなってくると思う。

この辺りを冷静に分析していたのは良かったのかもしれない。

また、この体験で仕事とお金のことを考えるようになり、今更ながら資産運用の勉強をはじめたり積み立てNISAをスタートさせました。働いて稼いだお金に今度は働いてもらう。なぜ今まで手をつけなかったのかと後悔しましたが、自分のマネーリテラシーの低さを教えてくれた体験でした。2ヶ月ほど働いて仕事が戻る兆しが見えてきたら終了。そして痩せました。

東京音楽大学

2022年のはじめは、コロナの影響を受け仕事がなくなりつつ、給付金ももらえないので営業活動を続けながら生活を守ためのアルバイトをしたりする中で、いくつか新しい仕事の相談もいただいたりしていた。それと同時に、指導者としてのスキルの限界を感じたりもしていた。

いただいた仕事の一つを自分のスキル不足で断ってしまったり、指導者としてのスキルに限界を感じていたりと自分の現状と葛藤する中、東京音楽大学が指揮研修講座を開いていることを発見。

自分は春からレッスンの仕事が先に戻ってきて、演奏活動は夏以降だと仮説を立てていたのですぐに出願準備をしてエントリー。

学ぶなら今しかない。

#春から東京音大

無事に指揮研修講座に合格をし、4月から早速レッスンスタート。

社会人になって通う音楽大学は学生の頃と全く違った景色だった。

夏まで毎週レッスンに通い可能な限り他の門下生のレッスンを聴講したり、本当に思い切って飛び込んで良かったと思う時間だった。立ち方や指揮棒の持ち方、図形の書き方から教わりレッスンを受けることで変化していく自分と向き合うことがとても楽しかった。まだまだ成長できる。

当時を振り返って

自分を変えたいなら環境を変えるのが一番

原点回帰

2022年の春にもなればまた世の中の状況も変わってくる。

そんな中、去年は自分の音楽をはじめた原点に繋がりのあるようなお話をいくつかいただくことができた。母校に教えに行くことになったり、中学校の同級生からの依頼であったり、自分が吹奏楽と出会った高校時代を過ごした街で活動している楽団だったり、高校時代の同級生が通っていた中学校なんかに教えにいくご縁も多く生まれた。

中学、高校時代を過ごした街に仕事で戻ってくる、この感覚はどこか懐かしく嬉しいもので、とくに各地域の学校の作りは似ているのか、建物の中が母校に似てたり中学校や高校時代の同級生の顔を思い浮かべながら「この街でコントラバスをはじめて、オーケストラや吹奏楽と出会ったんだよな」と音楽指導に明け暮れた。

これまで無我夢中でやってきたことが、ガチャっとハマるような2022年。

一番足を運んだのが青春時代を過ごした街だった。

当時を振り返って

今の自分ができる集大成だ、思いっきりやってこいと言われているような気がした。

予想していた出来事も

これだけレッスンやら指揮活動やら吹奏楽指導について書いていると、指揮者に転向するのかという質問やコントラバスはもう弾かないのかという声も届く。

2022年は指揮を学び、その経験を足し算で積み重ねる年だったので発信は指導者としての活動に集中していたけれど、併せて演奏活動もどんどん続けていくし辞めるという選択肢もない。

離島や地方に行ったり特に秋以降はたくさんの場所で演奏する機会をいただけて嬉しかった。

古い言葉だけど、複数の仕事を持つ復業であり、メインの仕事を一つに絞る必要もない肩書きだっていくつあっても良い。

聞いてきてくださった方には丁寧に説明させてもらい、これからもガンガン自分のスタイルで活動を続けていこうと思う。

当時を振り返って

なぜ発信の多くはレッスンが中心なのかは飲み会の席で。自分の中で掛け算(横展開)ができるフェーズにあるものは一旦置いておき、足し算でスキルを積み上げる必要があるところに全振りをする。A(コントラバス)B(レッスン)C(コントラバス×吹奏楽指導)D(指揮活動)自分は今どこの領域(活動面積)を育てていくかを考える。

夢を叶えたその先に

目標や抱負がなくっても焦る気持ちがあるわけでもなく、なんだかどこか心地よい。

家に帰ってお風呂に入るのが楽しみだったりと、何気ない日常に幸せを感じるようになった。

今までの自分と何か違う、でも嫌じゃない。

この気持ちはなんだろう?

無我夢中でがむしゃらに駆け抜けた先に待っていたのは、目標や抱負も思い浮かばず、ふわふわと過ごす時間が心地よい、今までにない感覚。

そして焦りもなければそんな自分を奮い立たせようと思う気持ちもなく、どことなく心地よい。

ただいまと帰宅して、美味しいご飯を食べて、お風呂に入ってつい長湯。

そうか、気づいたらずっと描いてた夢が叶っていたのかもしれない。

だとしたら、今はその時間に身を委ね、また目標が見えたら走り出せば良い。

夢を叶えたその先に、見える世界には何がある?

夢を叶えたその先に、見える世界には何がある?

安定した暮らし?

社会的地位?

多くの人からの名声?

たくさんのお金?

描いてた理想の自分?

それはきっと人によって違うかもしれない。

夢を叶えたその先に待っていたのは、それほどでもない成績で音楽大学を卒業し、音楽家として生きていくことを夢見てた、大学卒業1年目の自分が抱いてた将来への期待と不安が入り混じる感情と、少しばかりの心の余裕だった。

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イグチシンノスケ

千葉県出身。 船橋市立葛飾中学校管弦楽部にてコントラバスと出会う。 千葉県立市川西高等学校吹奏楽部を経て洗足学園音楽大学へ入学。 2022年春学期東京音楽大学指揮研修講座修了。 在学中より「吹奏楽部におけるコントラバスの現状」に着目し、多くの講習会に講師として参加。大学卒業後はフリーランスのコントラバス奏者としてオーケストラ、吹奏楽、室内楽をはじめ楽器製作ワークショップやレコーディングなど多方面での演奏活動をする傍ら、吹奏楽指導者・アマチュアオーケストラのトレーナーとしても活動しており、中でも吹奏楽におけるコントラバスの指導に力を入れている。 これまでにコントラバスを寺田和正、菅野明彦、黒木岩寿各氏に師事。指揮法を川本統脩、三河正典各氏に師事。よこはま月曜吹奏楽団指揮者。初心者と子どものためのオーケストラpìccolo音楽監督。板橋区演奏家協会理事。取手聖徳女子高等学校音楽科非常勤講師。

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